祖父の話

色不異空 空不異色

色即是空 空即是色

 

僕は般若心経を暗誦することができる。

 

 

 

この前初めて湿布薬を買った。パッケージを開けるとすぐさま漏れ出る、独特のツンとくる匂い。この匂いはどこかで嗅いだことがある……そうだ、これは祖父の匂いだ。祖父の近くに寄るとこの匂いがしていたが、幼く健康で筋肉痛とは無縁のあの頃は知らなかった。あれは湿布薬の匂いだったのだ。

 

祖父との記憶、といっても、思い出すことは実はそう多くない。実際祖父の人となりや人生史がどんなものなのか、今でもよく知らない。ただ、僕の死生観というものに大きく影響を与えた人であることは間違いない。それは他でもない、彼の死によるものだった。

これは、僕の祖父の臨終に際しての、重く、懐かしく、そして少し不思議な体験談だ。初めて身近な人を亡くした僕の、とりとめのない回想録という形をとる。冗長な部分や、ありきたりな話もあることと思うが、時間があるときに読んでいただけると幸いだ。

 

 

祖父が亡くなったのはかなり前だ。話は2010年の3月へと遡る。

父方の祖父がガンを患ったという知らせが来たのは、小学6年生になったころだったと思う。僕が生まれるずっと前に亡くなった母方の祖母の死因もガンだったという話を聞いていたので、思わず身震いした。ガンという言葉がすなわち死を連想させるような響きを含んでいた。小5の時に一緒に家族旅行に行ったばかりなのに、そんなにすぐに症状が出るものなのか、と驚きもした。いや、もしかしたらその時すでに初期症状は出ていたのかもしれない。きっと最後の思い出に、という旅行だったのだろう。年末が近づくにつれ、容態を見に父が大阪へ帰る回数が増していったことを思い出す。それが何を意味するかは、まだ小学生だった僕にも窺い知れるものだった。

僕はというと長期休暇中も塾の集中講習があったため、大阪へ帰ることができなかった。盆と正月も例外ではなく、引っ越して以来初めて年末年始を広島で過ごした。広島にしては珍しく雪が積もり、車が出せなかったためジャンパーを着て塾まで走ったら、友達に「伊織がマッチョスーツを着てきた」と呼ばれた大晦日。母親とこたつでぼーっとテレビを見ながら、誕生日に買ってもらったボードゲームをして過ごした元日。

その後晴れて中学受験に合格し、小学校の卒業式を終えた僕は春休みを使って大阪へ向かっていた。祖父の病状は芳しくないとの話を聞いていた。

 

 

祖父は口数の少ない人だった。

いつも伯母とツープラトンで大阪人特有のマシンガントークを繰り広げている祖母とは対照的に、畳の間でくつろぎながらテレビで高校野球か相撲を見ている、そんな姿が印象に残っている。僕自身、ほとんど会話した記憶がない。

孫である僕に対して、特別にかわいがるようなことはしなかったが、それが優しい人でなかったということかというと、そうではない。

小3のときだったか、社会科の授業で「昔の人の暮らしを知る」みたいな単元で宿題が出た。親戚や近所のおじいさん・おばあさんに、幼いころ(家電がなかった時代)の生活はどんなものであったか聞いてこい、という内容だったと思う。小1で広島に引っ越していた僕は近くに知り合いのお年寄りなんていなかったのだが、運よく宿題の期間と帰省が被ったので話を聞くことができた。最初に祖母に声をかけたのだが、「じいちゃんの方がそういうのできるで」とのことで祖父に事情を話した。すると、次の日にはちゃぶ台の上にビニールひもでできた立派なわらじがこしらえてあった。それも、たくさん。

思えば近くのドブ川にザリガニ取りをするときなんかも、後ろについて見守ってくれていたような気がする。きっと言葉よりも行動でコミュニケーションをとる人だったのだろう。

 

それでもやはり会話はほとんど交わさなかったのだが、唯一の祖父と僕だけのコミュニケーションと呼べるものがあった。それが"早起き勝負"である。

僕はゲームが大好きなのだが(これについてもいずれ記事を書こうと思う)、普段は土曜日に1時間しかやってはいけないというなかなか厳しいルールだった。その禁が解かれた数少ない条件が帰省中で、毎日1時間やっていいということになっていた(なぜかは覚えていない、慣習とは得てしてそういうもんである)。

とはいえ、1時間では到底足りないというのが幼心であり、どうにかできまいかと思案して一つのアイデアに至った。親たちが起きる前からゲームをやれば何時間やっていようとバレない、というものだ。だが、当然目覚ましアラームなどをかけようものなら親も起こしてしまう。では、どうするか。"気合い"である。我ながら凄まじい執念だったと思う。かくして、小学生の僕はなんとか早起きをしようと決意したのだった。

ところが。

ある朝、5時過ぎに"気合い"で目覚めることに成功した僕は、音を立てぬように襖を開け、忍び足で階段を下りていった。家族を起こすことなくゲームの置いてある居間へ到着し、心の中で万歳三唱を唱えていたが、ふと目線を横にやると隣の部屋の電気が点いてる。しまった、先を越されていたかと思い部屋に入ると、そこには祖父の姿があった。年寄りは早起きというが、これほどまでとは。その後何度試しても、やはり祖父が先に起きていた。祖父はとやかく言う人ではなかったので僕は気兼ねなくゲームをやっていたのだが、しだいにゲーム以外の早起きへのモチベーションが生まれてきた。「祖父に早起きで勝ってやろう」と。

この話——僕が祖父と早起き競争をしているという話は、いつのまにか親戚の間に知れていた。「今日はじいちゃんに勝てたん?」「あかんかった」というやりとりが毎朝家族と交わされるようになった。

なかなか勝つことができなかったが、たまに祖父と早朝の散歩に出かけることもあった。パジャマのまま、まだ誰もいない道を歩くのはなんだか非日常であり、そわそわした。少し離れたコンビニに行って、サンドイッチを買ってもらったときは、家族には内緒で自分だけが祖父と行動しているという特別感があり、うれしかった。

 

 

以上が祖父との思い出とでも言うべき出来事だ。このような内容を帰省の車中で思い出していたかどうかは定かではないが、3月の暮れ、まだ肌寒い朝に車は祖父母の家に到着した。およそ1年ぶりに会う祖母と挨拶を交わし、初めて病床の祖父と対面した。

 

絶句した。いつも祖父がいた畳の部屋に設置された看護用ベッドに横たわる彼の体躯はひどくやつれており、皮膚は病気のせいなのかそれとも薬剤の副作用なのか、黄土色に染まっていた。とても生きているとは思えない痛ましい姿だった。なんと声をかけていいのか分からなかった。かなり、怖かった。

今思えば、あれは終末医療だったのだろう。死ぬなら実家でという祖父の思いを尊重し、在宅看護という形をとっていたのだと思われる。

 

普段は祖父母宅に3,4泊はするのだが、あまり大勢で泊まっても迷惑だろう、看護の邪魔にもなろうということで、早めに父の実家を離れることになった。

お昼ご飯を済ませ、

「お義父さん、そろそろおいとまさせてもらいます」

母が寝たきりの祖父にそう呼びかけると、祖父ははっとしたような顔をし、「おお、そうか、ほな」といつものガラガラ声で言い、みずからその体を起こした。すぐさま伯母が背中を支え、母も「大丈夫ですお義父さん、寝ててください!」と慌て気味に言ったが、祖父は起き上がったまま僕の方を見、手を差し出し、「また、元気でな」と言ってくれた。細くなってはいたが、ゴツゴツとした手だった。

父親は翌日から仕事があったため先に広島に戻り、母と妹と僕の3人で母方の祖父宅へ移ることになった。幸い両親の実家は近かったため、僕を含む3人は父親に車で送り届けられ、彼はそのまま広島へ戻っていった。 

 

 

祖父の訃報が届いたのは、翌朝のことだった。

 

母方の祖父宅で、僕は例のごとく早起きしてゲームをやっていた。たしかポケモンのパールだった。7時になる前くらいに階段の軋む音が聞こえた。どうやら母が起きたらしい、いつもより少し早いな。僕は例のごとく、階段を降りてきた母親に白々しく「おはよう、僕も今さっき起きてゲーム始めたとこ」などと言おうとしていた気がする。

祖父の死をどのような文言で告げられたかは、正直憶えていない。

ただ、数秒して、ゲーム機の画面に水たまりができていたことは今でも思い出せる。悲しいと感じる間もなかった。反射的な落涙だった。

 

 

父が車で広島に帰っており祖父母宅までの足がなかったため、免許を取ったばかりの従兄弟のにいちゃんが軽で迎えに来てくれた。いつもにこやかで、ジョークを繰り出しては家族を笑かすにいちゃんも、見たことがないほど顔が暗く、口数も少なかった。

一昨日の朝と同じ玄関先に車が停まる。いつもの畳の部屋に、祖母と伯父伯母と、看護師さんがいた。朝の5時台に静かに息を引き取ったのだそうだ。祖父は、昨日と同じように、仮設ベッドに横たわっていた。ぬるま湯で濡らしたタオルで、彼の身体を拭くように言われた。「清拭(せいしき)」というらしい。まだ死後硬直には至らず、弛んだ皮膚をどう拭いていいのか分からなかった。悲しみや恐怖よりも、戸惑いが支配していた。

昨日まで生きていて、母の呼びかけにも応じ、自ら体を動かしていた祖父が、いつもの声で会話をしていた祖父が、いま目の前で死んでいる。そんなことを考えていたときに、伯母がぽつりと言った。 

「……きっと伊織がこっちに帰ってくるのをずっと待っててくれてたんやな」 

その瞬間、涙がどっとあふれてきた。祖父が僕のことを待っていてくれたという事実への嬉しさと申し訳なさ、その間僕は祖父のことを考えすらしていなかったという罪悪感、祖父が被ったであろう身体的苦痛、僕が帰省をしなければ祖父は生きながらえたのではないかという根拠のない自責、様々な思いがぐるぐると渦巻いてこらえられなかった。声をあげて泣いた。ほとんど話したこともないのに、どうしてこんなに涙が止まらないんだろう、自分でも分からないほど泣いた。

 

 

お葬式までの流れは驚くほどスムーズだった。

お昼前には大柄なお坊さん(方言だろうか、うちでは「お寺さん」と呼んでいた)がミニバイクでやって来て、なにやら色々な道具を取り出し、金属の棒を振ったり指を小気味良くパチンとならしたりした後、神妙な面持ちでお経を唱えた。このとき初めて自分の祖父が真言宗と知り、その後中学生になって、真言宗密教であると知った。

お経を読み終え、こちらに向き直り、破顔して一言、「長いことご苦労さんでした、どうぞここからは足を崩して聞いてください」と人懐こい関西弁でにこやかに告げる。ふと心の緊張の糸を緩ませる響きだった。

「最初のお経は、亡くなられた方の魂がどこかへ逃げていってしまわないよう、早口で唱えるんです」

「この五色の札にはそれぞれちゃんと意味がありましてね、それぞれ仏さんがご飯を食べたり、体を浄めたりするのを助けてくれるんです」

興味深い話もいろいろしてくれるし、祖母の話にもうんうんと頷いて相槌を打ってくれる。ときには関西の人間らしく笑いを誘って、空気を和らげていた。もはや神仏の存在を信じる人がほとんどいなくなったこの時代、宗教家の役割はその有り難さを説くことよりも、親族の死に直面して悲しみに暮れる遺族の気持ちを汲み取り、共感し、少しでも安らげることなのかもしれない、と今になって思う。

 

次々と親族の人たちが家へと訪れ、お香をあげていったた。人見知りだった僕と妹は、玄関がガチャリと開く音がするたびに2階の寝室に隠れていた。家はそのお香の匂いで充満していた。母は「辛気臭い匂いだ」と言っていたが、僕はこの匂いが好きだった。文字通り、抹香臭い性格なのかもしれない。 

父がいったん広島に戻った際に届いていたので、僕は中学の制服を着て葬儀に参列することになった。まさか入学式や記念撮影よりも先に、葬式で新品の(そしてぶかぶかの)制服に袖を通すことになるとは。親戚のおばあさんが「海軍さんみたいな制服やねぇ」と言ってくれた。祖父も同様の感想を抱いたのだろうか。できれば生きているうちに見せたかった。

 

 

以上がおおよその回想録だ。葬式の内容や火葬までの流れは正直なところ記憶が曖昧なので今回は書かないことにした。

祖父が亡くなってからもうじき10年になる。当時小学校の卒業を控えていた僕は半年もしないうちに大学を卒業する。今年のお盆は帰省することができなかった。 

“病は気から”という言葉がある。この言葉がどれほど正しいのかは知る由もないが、僕が帰省したのと祖父が亡くなったのが同時だったのは、どうしても偶然とは思えないのだ。もしかしたら、人は気持ち次第で自分の死を遅らせることができるのかもしれない。医学の知識は皆無に等しいが、今なおそう思わずにはいられない。

葬式の告別式でびょうびょう泣いている僕に、従兄のにいちゃんが言った。「伊織、こういうときは笑って送り出すもんやで」と。これから先、身近な人の死に触れることも多くなるだろう。はたして僕にそれができるだろうか。

死者は生者の心の中で生き続けるというが、こうして文章に綴ることで祖父の記憶をやっとこさ整理できた気がする。見つめ直すことで前向きに捉えられるようになるのなら、亡くなった人に思いを馳せるのも、悪くない。でも、もう少し話してみたかった。お酒も酌み交わしてみたかった。結局早起き勝負も勝つことはできなかったな。でも今はもう絶対勝てないだろうな。
インターネット上で故人を偲べるようになった時代に感謝しつつ、今回は筆を置こうと思う。 

 

 

羯諦 羯諦 波羅羯諦

波羅僧羯諦 菩提薩婆訶

般若心経