お金の話
雨があがって
雲間から
乾麺みたいに真直(まっすぐ)な
陽射しがたくさん地上に刺さり
行手に榛名山が見えたころ
山路を登るバスの中で見たのだ、虹の足を。
眼下にひろがる田圃(たんぼ)の上に
虹がそっと足を下ろしたのを!
野面にすらりと足を置いて
虹のアーチが軽やかに
すっくと空に立ったのを!
その虹の足の底に
小さな村といくつかの家が
すっぽり抱かれて染められていたのだ。
それなのに
家から飛び出して虹の足にさわろうとする人影は見えない。
―――おーい、君の家が虹の中にあるぞオ
乗客たちは頬を火照らせ
野面に立った虹の足に見とれた。
多分、あれはバスの中の僕らには見えて
村の人々には見えないのだ。
お金の話
実家が「一に節約、ニに倹約」みたいな家だったので、知らず知らずのうちに「お金を使うことは罪だ」という観念を抱くようになった。
中高一貫の私立に通っていることに負い目があった。僕の母校に対する世間一般の評判は「おぼっちゃま学校」であり、事実まわりにはその類の人間が多かったように思う(母校や同学出身者を批判しているわけではない。僕は生徒も先生もひっくるめて母校が好きだ)。中学受験の際に県立の中高一貫にも合格しており、学費の問題で母はこちらに進学するよう食い下がったが、父親の一存で私立に行くことになったといういきさつがあった。そのため、一時期は学校へ通うことさえ罪なのではないかと感じていた。
(なお余談だが、僕自身はいずれとも異なる、吹奏楽部が全国レベルの中学校に行きたいと思っていた。三者で意見が割れたが父親の決定権が強かったのである。)
留学や海外研修にも行きたかったが、とてつもない金額がかかると思うとどうしても心のブレーキがかかって言い出せなかった。大金を使うという"大罪"を犯してまで、果たして僕のような人間が海外に行く価値があるのだろうか? 宝玉と泥団子を天秤にかけるまでもないように、答えは明白だった。
大学受験の際も、もうこれ以上親に経済的な負担はかけたくないと思い、予備校などには通わなかった(これは実は嘘で、一度だけ体験授業を受けている。もちろん無料の)。赤本も一冊たりとも購入せず、先輩のおさがりを使っていた。願書を出したのは国立の前期と後期の2校のみ。中学受験の際に滑り止めで受けた学校の入学辞退の際に万単位の契約破棄手数料がかかったことを聞かされていたので、受かっても行かない(もしくは行かせてもらえない)であろう私大は受けまいと思った(くどいようであるが私大の人たちをdisるつもりは毛頭ない。僕には私大に通う大勢の素晴らしい友人たちがいる、彼らを貶めることなど到底できない)。また、入学辞退申し入れの電話で母親が担当者にねちねちと嫌味を言われたことも知っていたので、再びそんな目に遭わせたくないと思ったのも大きい。
かくして高校までの僕は、「金を使うこと=罪」という図式の中で生きてきたのである。
ところでご存知の方も多いかもしれないが、僕は大学に入ってから金のない時期がしばらく続いていた。具体的に言うと2年半ほどで、ひどいときは友人に計10万円程度の借金をしていた。
金を使うことが罪ならば、金を使わなければよい、というマリーアントワネットのような解法が通用するのは、自分が生きていくことにお金を使わずにすむ間のみである。少なくとも水道代、電気代、ガス代、ネット料金、家賃、食費、定期代、医療費、その他もろもろの「生活必需金」が親に担保されているうちは、金を使わなければよいという理想論を叶えることは容易い。せいぜい趣味と人付き合い、ここを削る程度だろう。
さてここで問題だ。
先に挙げた諸経費を自弁しなければならなくなった人間が、理想論を叶えようとするとどうなるだろうか?
答えは簡単。「破滅」である。
金を使うことが悪であるならば、出費を抑えなければならない。一日一食、定期を買わずに自転車で通学する、よほどのことでない限り病院には行かない。今まで自分が何の対価も支払うことなく享受していたものを悉くそぎ落とさない限り、金を使うという罪を犯すことになるのである。
その先に待っているものは、何か。
「みじめ」という感情である。
よく金持ちは吝嗇で性格が悪いという描写があるが、思うにあれは貧者が富者を僻む中で創り出した妄想の賜物だ。あるいは、金持ちに貧乏人の置かれた状況が分かるまい、という意味合いでならば、筋が通らないのでもないのかもしれないが、少なくとも金持ちがケチなはずがないのだ。
「金銭面の豊かさと精神面の豊かさは比例する」
とは一概には言えないが、
「経済的に貧しい人は心も貧しくなる」
というのは確かなことに思える。
「どうしてこんな目に遭わねばならないのか?」という、被害妄想じみた思考にとらわれ続けるのは、自身にとっても、はたから見ていても気分の良いものではない。
僕もその例に漏れることなく切り詰めた生活を送っていたが、啄木の「働けど」の歌のように思う機会が多かった。毎日の食事に使えるお金を考え、スーパーを何軒もはしごする。もはや倹約が自己目的化していたのだと思う。大金を支払った後にはじゅくじゅくと心が蝕まれた。
だが、大学生になって3年目を過ぎたあたりから、次第にこのような考えが少しずつ頭に浮かぶようになった。
「金を使ってもよいのではないか?」
読者諸氏にとってはくだらない、取るに足らないことのように思えるかもしれないが、僕にとってこれはコペルニクス的転回といっても差し支えないほど大きな転換点であったことを強調しておきたい。
三食にきちんとお金を使っていい。電車で通学してもよい。具合が悪ければ薬を買う。
それだけのこと、高校まで当たり前にしてきたことが、どうして大学に入っただけで罪となろうか。小学生のときから諳んじてきた憲法25条の謳う生存権の文言の意味を、初めて体験という形で理解したのだ。人間には文化的で最低限度の生活を営む権利があると。そのために金を使うことは、なんら咎められるべきことではないと。
心にゆとりが生まれた。あの、節約をせねばならないという脅迫観念は何だったのだろう、と。また少しずつだが、金を使ってもよい対象を拡張することができるようになった。
「自分が価値があると思った嗜好品や趣味のものに対して、惜しむことなく相応の対価を支払う」
ああ、このセリフのなんと文化的なことか! 自分を悦ばせる何かをプロデュースする店やクリエイターに、感謝と敬意を表してケチらず代金を支払う。それを元手に店はよりよい品物やサービスを生み出し、クリエイターはまた創作をする。僕が美容院に払ったちょっと高いカット料金も、コーヒー豆の代金も、観光地でのややぼったくりに感じるサービスも、必ずそれらを供給する人たちの糧となる。極めて単純だが、なんとも爽やかで気持ちのいい金の巡りのモデルではないか。
まだまだ全てにおいてとまではいかないが、ある程度「金を使うこと=善」と思えるようになったことは、僕の精神に大きなゆとりを与えてくれた。今では大きなストレスなくお金を払うことができるようになっている。
ここで終わってしまうとただの自分語りでなんともつまらないので(耐えて読んでくださった方はありがとうございます)、もう少し一般的な話に落とし込んでみようと思う。
一つ。個々の人間が生まれ育つ環境には、他の環境とは全く異なる"文化"がある場合が多い。特に"家庭の文化"については、他人と比べる機会が少ない・早期植え付けが始まる・ある程度の強制があるなどの理由から、特異であるということに気が付きにくい。
二つ。苦しくて仕方がないとき、そう感じる根底にある自身のものの見方や考え方を疑ってみるとよい。それは果たして正しいのか? 周囲から知らないうちに植え付けられたものではないのか? 考えているうちに、パラダイムシフトとでも言うべき観念の転換が起こり、ずっと生きるのが楽になるかもしれない。
三つ。何らかのモノやサービスに対して正当な対価を支払うことは義務であると同時に善であり、感謝や敬意の表出であり、喜びである。このことに気づくだけで、「金を支払う」という行為の意味が違って見えてくる。
このようなところだろうか。
とはいえやはり金とか所得に対するコンプレックスは消え去ったわけではないので、僕にお金や給料の話をするのは遠慮されたい。ま、結局は逃れられない部分もあるのよね。今はそっとしといてくださいな。
今回はこんなところで。
そんなこともあるのだろう。
他人には見えて
自分には見えない幸福の中で
格別驚きもせず
幸福に生きていることが――。
吉野 弘『虹の足』