メリー・クリスマス

 先日、以下のツイートをした。

 

 

 こんなことを言ってはいるが、実のところ僕はクリスマスというものが好きではない。というか、キライだ。キライという言葉は自分で口にしても心がチクリとするからあまり使いたくないが、それでもキライだ。クリスマスソングも、あの鈴の音を聴くだけで嫌気がさす。

 

 なぜか。答えは単純。次の日――12月26日が僕の誕生日だからだ。

 

 

 

 12月の24,25の両日が近づくにつれ、この世のあらゆるものが色めき立つ。耳馴染みのある歌を皆が口ずさみ、マーケットは活気に溢れ、夜の街に滲むイルミネーション、パチパチと音を立てる暖炉。子供たちはモミの木に飾りをつけ、白髭の老父が贈り届けるプレゼントを心待ちにしているのだろう。仕事帰り、夕暮れの街を行き交う大人たちも、どこか楽しげだ。それがきっと聖夜の魔法なのだ。

 

 そしてあくる日、12月26日。

 あれほど浮かれ騒いだ世の人は、まるで何事もなかったかのようにそそくさと年越しの準備を始める。電飾でおめかししていた街は、再び殺風景な冬の色に戻る。スーパーで売れ残り、半額の札を貼られたケーキが僕の誕生日ケーキだ。

 

 12月26日は、そういう日なのだ。

 

 

 

 日本には昔から「ハレ」と「ケ」という考え方がある。説明するのは怠いから知らない人は自分で調べてくれ。クリスマスと正月は紛れもなくハレの日、それも雲一つない快"晴"なのだろう。そうなれば、その二つに挟まれた数日間がケの日になるのも無理はない。

 

 世の人はそれぞれがそれぞれに幸せな日を過ごしているだけ、別に僕を貶めようとなんか微塵も思ってないことは分かってる。誰も悪くなんかない。だが胸の奥から湧き上がってくるこの気持ちは何だろう。

 

 

 

 自分が卑屈な人間だということは理解しているつもりだ。人が幸せなら、それでいいじゃない。どうしてそれを厭う必要がある。上で触れたツイートも、そう思おうとしてのことだった。けれども、 まばゆい幻想の夜と仕事納めにばたつくスーツの大人たち、きらきらとした鈴の音と鳴り響く社内電話、2つの相反する心象風景や音が心に焼き付いて、どうしても耐えられないのだ。

 

 だが幸せになろうとしない者に、幸せは訪れない。卑屈なだけではどうしようもない。今年は自分でケーキでも買ってみるか。たまには、いい店で。帰り道、北風が吹きすさぶ中、少しだけ心を浮き立たせながら、家と反対方向の洋菓子店へと足を延ばした。

 

 

 

 果たして、店の明かりは落ちていた。「今年一番の大仕事を終えた」とでも、言わんばかりに。