Big Band 2023 ~春・夏編~

年の瀬いかがお過ごしでしょうか。どうも、投稿3年ぶりとなるPN:読彙です。言い訳はしません。

 

今年は色々な方にお誘いいただき、数多くのビッグバンドで演奏の機会を得ました。本番があったのは7バンド、本番回数は計16回。演奏した楽曲の総数は63曲で、アルバムが5~6枚出せるくらいには演ったことになります。これ、結構自慢です。

 

この一年、旧交を温めたり、お初の方と合わせたり。西は大阪から、東は宮城まで。せっかく日本各地で沢山の方と演奏できたのですから、文章にでも残しておこうと思い、久々に筆を執ることにした次第です。一年のライブをセットリストとともに振り返っていきとうございます。日記ならぬ年記です。全部書くと長くなるので、前編後編にわけてお送りします。個人名を出した文書は内輪っぽくなるので普段はあまり書かないのですが、今回は敢えて。今年ご一緒した皆様へのリスペクトです。

 

3/18(土) 学バン卒業式 @門真市民文化会館小ホール <Muko Jones and Muko Lewis Jazz Orchestra>

www.youtube.com

このライブがなかったら今年の自分がなかったと言っても過言ではないライブ。挾間美帆とかVJOの"Sophisticated Lady"やるって言われてようやくフルートを買う踏ん切りがついたのもそうだし、今まで食わず嫌いだった日本人コンポーザーも悪くないなと思えたのもそう。よいスタートが切れたと思う。

ドラム河中と、今回のライブの発起人でもあるトランペット向田とは中高ブラスバンド時代からのいわば悪友のような関係で、3人ともそれぞれ別の大学にいったものの結局全員がビッグバンドサークルに所属していた。音楽に関する共通の話題が増えた反面、他二人は近畿圏の学バン所属であるのに対し自分は関東圏であったため、山野や対バン等で顔を合わせることはあれどともに演奏することは一度たりともなかった。そんなふたりとようやく同じバンドで組む機会を得られたのは感慨深いというか、思いひとしおというか……とにかく誘ってくれた向田には感謝しかない。あとトランペット菊地祥太を向田と再び会わせることができたものよかった。

他にも懐かしい面々との再会があったのもエピック。かつての東大京大対バンで会ったきりのテナー雑賀・安原のふたり(安原は当時バリトンだったけど)、あと学外で唯一の森林科学系知り合いであるトランペット越くんらと再び相まみえ、6年前のピックアップ以来("Feet Bone"と"Back Bone"のW骨セトリやったなぁ)の共演となった。本番だけとはいえソリストで来てくれたカラメのニイちゃんことトランペット谷口や、リハトラとして叩いてくれたドラム・バディ高岡リッチとともに演奏できたのもうれしいサプライズ。お客さんには学院ブラスのパーカッション大川やホルン竹ノ内様をはじめ、バリトン志摩大輔やトランペット脇坂くんなどマソックの面々も来てくれ、学バン卒業式というライブ名に恥じない集大成感である。

音楽面でも得られたものは大きかった。特に、"Your Scenery Story"の安原テナーソロには物凄い影響を受けた。魂を絞り出すような音色。スピリチュアル、などとというと途端に胡散臭くなるが、こちらの精神に直接干渉してくるような歌い方で、リハーサルの時点で涙を堪えながら聴いていた。今まで自分のソロはコピーばっかりだったけど、もうちょっとアドリブ頑張ってみてもいいかなと思えた。あと向田が4曲目の"Flight of the Foo Birds"でリズム(Piano/Bass/Drums)全部やるやつ。あれは企画も実力もあっぱれ。最高にエンターテイメントだったね。動画もあるので一見の価値ありです。

セットリスト

1. Jeannine (Duke Pearson / arr. Phil Kelly)

2. Off the Cuff (Jim McNeely)

3. Departure (Martha Kato)

4. Flight of the Foo Birds (Neal Hefti)

5. Sophisticated Lady (Duke Ellington / arr. Garnett Brown)

6. First Love Song (Bob Brookmeyer)

7. Your Scenery Story (Miho Hazama)

8. Take the A Train (Duke Ellington)

 

3/19(日) LSOPリサイタル @調布Ginz <LSOP>

会社の人にツテで乗ることになった歴史の長いバンド。1970年代初頭の小石川高校OBらが結成したが、メンバーの高齢化や入れ替わりを通してOBバンドとしての性格は薄れ、僕みたいな部外者もOKというのが今の流れのよう。中核メンバーはみな軒並み60代後半ということで、なんとVJOのサックスセクションとほぼ同期なのだ。Thadの来日公演も生で聴きにいったことがあるらしい。羨ましいなどというものではない。

昨年の加入当時はパーカッションで数曲担当だったところ、ちょうど3rdAltoの方が体調を崩されたということで自分がその枠にスライドすることとなった。こととなったのはよいが、Altoとしての初本番が年度末のリサイタルだったため、その年やってきた10曲あまりを一度に譜読みする羽目になったのであった。本番もむこふるの学バン卒業式を大阪でやった翌日とんぼ返りで調布、というのでいっそうキツかった記憶がある。

現バンマスのトランペット藤井さんはコテコテの関西人で、ソロがアホほど巧い。特に往年のビバップ吹かせたらそらもう立板に水でフレーズが出てきはる。コンマストロンボーン菊地さんは今までの自分になかった観点で普段の合奏をみてらっしゃって、他バンドで自分がコンマスする際に非常に参考にさせていただいている。参考音源に従う部分と、譜面に対する独自の解釈を加える部分の匙加減が見事。原曲至上主義だった(いまでも大概そうではあるが)自分の曲の仕上げ方に一石が投じられることとなった。

セットリストは流石の年の功、王道寄りの曲が並ぶ一方で、かつてバンドと交流があったというトロンボニスト・John Fedchockのアレンジなど、他ではお目にかかれない曲もちらほら。数百曲のアーカイブがあるということなので、これからしばらく退屈しなさそうです。

セットリスト

1. Warm Breeze (Sammy Nestico)

2. I Love You (Cole Porter / Arr. Les Hooper)

3. Say When (J. J. Johnson)

4. Three and One (Thad Jones)

5. Antigua (Bob Mintzer)

6. Central Park West (John Coltrane / Arr. John Fedchock)

~休憩~

7. Cute (Neal Hefti / Arr. Bob Mintzer)

8. Bebop and Roses (Alan Broadbent)

9. Moonlight Serenade (Glenn Miller / Arr. Bob Minzer)

10. You and the Night and the Music (Arthur Schwartz / Arr. John Fedchock)

11. Polka Dots and Moonbeams (Jimmy Van Heusen / Arr. Dave Barduhn)

12. And That’s That (Dennis Mackrel)

Enc. Dreamsville (Henry Mancini / Arr. Frank Mantooth)

 

3/25(土) 上智NSO卒コン @Live in Buddy 江古田 <Varnished Jazz Orchestra>

www.youtube.com

どうして私が上智大に?

上智大学のビッグバンドサークル、New Swing jazz Orchestra(通称:NSO)の卒業コンサートである。3月で卒業する代の組んだバンドと、新年度のレギュラーバンド(とは言っても今のNSOにレギュラーはないのだが)(かなしい)を中心に、NSO出身系のOBバンドも多数出演する。いや、普通にいいイベントだと思う。JJWはあんまりOBと現役の交流が活発ではないので(そこが気楽でよいところでもあるとはいえ)。

今回は自分の一つ上の代でコンマスだったトランペット伊澤さんのもと召集された、VJOの曲をメインでやるVarnished Jazz Orchestraの旗揚げ公演であった。知り合いはJJWに所属してたベース林リウヤ、バンミスでもあるトランペット黒江、あとはドラムのニノさん(二宮さん)くらい。うそ。現役のときになんやかんや親交があったトロンボーンの菊地てつや君と斎藤ももえちゃん、ピアノのはるさめさん(はまべさん)もおる。でも半分以上はお初。しかもこのバンド、NSOの歴代コンマスが4人もいるらしい。ドリームチームやんけ。

ライブやって改めて思ったけど、VJOの曲って1曲がまぁ長い。30分の尺だと3曲が限界だった(1曲マクブライドのやつあったけどこれ以上入らん)。体力ゥー、という感じ。あまりJJWの人以外とサドメルVJOやることなかったし、まだまだアウェーではあったが、まずはこんなもんかというところ。引退してもう5年経つけど、交流って広がるもんやなぁ。

セットリスト

1. Optimism (Steve Davis)

2. Compensation (Kenny Werner)

3. Don't Even Ask! (Jim McNeely)

 

4/29(土) Big Band Bunny @新宿SOMEDAY <Az Zen Breeze>

自分が唯一パーカッションのみで乗らしてもらってたバンド。こっちは余計に交流のない界隈で、知ってたのはアルト加藤諒大とトランペット鹿口さん、トロンボーンののもしんくん(野本しんたろう)だけ。個人の力量は粒揃いで、なかなかすごいバンドやったと思います。実際、かなり実力不足を痛感し、練習に行くのがしんどいなぁという時期もありました。僕以外のリズム隊みんな巧いねんもん。

曲の方も海外のコンポーザーに直接コンタクトして取り寄せたり、メンバーが作曲編曲したりとなかなか耳にできないものばかり。音楽の裾野が広がると、それだけ元から知ってる曲へのアプローチの仕方も広がるものです。今回は楽譜の指示にアンクルンという東南アジアの楽器の使用指示があったのがおもろかった。普通に音楽やってたらそんなん出会わへんやん。楽器店見て回ったけどどこにも売ってなかったんで自作しました。本番マイク無かったんでなんも聞こえへんかったっぽいけど。

ライブはGreen Hill All Starsさんと。ゴキゲンなSwingが多く、僕好みのもの。当日は初めて自分で機材車を出しました。ライブハウスはコンガの機材設置を義務化してほしい。あと対バン相手の方から「アルトの三好さんですよね? ファンです」という旨のお声をいただいた。帽子も被ってないのに気づいてもらえるとは……感謝感激です。そういうお言葉をいただくたび、奏者として生かされているなぁと感じます。まぁ当の本人はサックス放り出してポコスカやってたけど! すまんな!!!

セットリスト

1. Clutch (Dan White / Arr. Yuki Shinojima)

2. From East to West (Evgeny Lebedev / Arr. Yoko Suzuki)

3. London Towne (Benny Benack III / Arr. Steven Feifke)

4. Direct Flyte (Michael Nelson / Arr. Makoto Kaguchi)

5. エイリアンズ (Yasuyuki Horigome / Arr. Yuki Yamashita)

6. Departure (Martha Kato)

Enc. 接吻 (Takao Tajima / Arr. Tokimeki Records)

 

5/21(日) 池袋ジャズ @東武百貨店 スカイデッキ広場 <くめ記念病院>

4年前に一度乗せてもらった、ピアノの院長・久米さん率いるくめ記念病院にて。このバンドもこのバンドで、どこから引っ張ってきたんやっていう曲を好き嫌いなくやるバンドです。なんでも食べます。健康。

練習は1,2回しか出れませんでしたが、リードアルトの本多さんの横でサードとして吹くのが一番のクリニックになるわね~となりました。本当に。ただこのバンド、院長のお気に召さないのかオールドファッションなSwingはあんまりやってくれないので、そこが心残り。わしはSaxソリが吹きたいんじゃ。

本番でいうと、僕らの後にやってたGame Music Societyがめちゃくちゃ良かった。僕はゲームミュージックを別の音楽形態に移して演奏することにことさら懐疑的(OST is 至高、圧倒的原理主義者、脈絡のないピアノアレンジやオケアレンジは滅んで♡派)なんですが、このバンドは良かった。マリカ∞DXのテーマとか原曲まんまで最高だったし、メタナイトの逆襲メドレーはグレープガーデン(SDX版)が入ってて声出た。自分もゲーム音楽やってみてぇ〜〜〜、ビッグバンドにする意義のある曲を……。

セットリスト

1. Give It a Year (Jon Hatamiya)

2. Pan Con Pan (Gabriel Perez)

3. Sabotage (Jared Schonig / Arr. Alan Ferber)

 

7/2(日) Portrait  in Jazz @銀座Lounge Zero <Az Zen Breeze>

Az Zen Breeze、長期活動休止前最後の本番。対バン相手は6Fとしゃち、相手にとって不足なしというところ。今回はギターの兄さん山下さんが卒業制作で書かれた曲なども交えて、より多彩なセットリストに。人の卒制を演奏することってあるんだ。

演奏したのは銀座の雑居ビル7階だか8階だかにあるラウンジ。全体的に内装きらびやかに、ウェイターの方はかっちりベストに身を包んでいて、明らかに学生に毛をはやした程度の団体が使っていい場所ではないだろ……と思いました(こなみ)。

個人的に思い出深いのが、"Chakafrik"という曲。作曲者のEmilio Sollaはアルゼンチンの生まれらしく、この曲もアルゼンチンタンゴの延長らしい。参考音源を聴いてみるとたしかに拍頭のアクセント感が強い6/8で、2拍子がずずいずずいと曲を前進させていくようなグルーブをしている。バンドネオンはあれど打楽器は一切登場しない、さてどう組み立てたものか……と思い曲を繰り返し聴いていると、突然天啓が降りてきた。カスタネットだ。これ、カスタネットが合うぞ。しかし、民族音楽というものに触れてこなかった自分は、本当にこの楽器を使っていいのか判らなかった(そもそも「民族音楽」などという大味なくくりをしている時点でたかがしれている)。カスタネットを2拍鳴らすのはタンゴ的にOKなのか? 調べると、タンゴの基本的な編成はバンドネオン、バイオリン、コントラバス、ピアノと出てくる。やっぱり打楽器おらんやんけ。散々頭を悩ませた挙句、「いやサックスとか使うてビッグバンドにしとる時点でもう原型あらへんやないかい」ということに気づき、すぐさま田原町のパーカッション屋に足を運んだのであった。僕の誤った異文化理解が曲に新たな彩を添えられたいたなら、そしてそれを楽しんでいただけたなら幸いです。とはいえ、フラメンコにでも手を出さない限り、もう一生出番はないかもね、カスタネットくん(¥5,500)……。

セットリスト

1. Stutter Funk (Gareth Lockrane)

2. Chakafrik (Emilio Solla)

3. London Towne (Benny Benack III / Arr. Steven Feifke)

4. Dawn of the Line (Yuki Yamashita)

5. What Really Counts? (Gabriel Santiago / Yuya Yoneda)

Enc. 接吻 (Takao Tajima / Arr. Tokimeki Records)

 

8/6(日) Sophia Summer Festival @赤坂B♭ <Varnished Jazz Orchestra>

www.youtube.com

3月の卒コンで交流のあった3バンドが、今回はしっかり尺取って演奏しましょうということで開催した対バン。タイトルにSOPHIAが付いてるのはそういうことですね。お相手はぺぽよばんどさん、Fascinating Rhythm Jazz Orchestraさん。演奏会場は赤坂B♭、昨年オーナーの方が逝去されたときはどうなるかと騒がれましたが、山野楽器の資本が入ってむしろ音響パワーアップしてました。改装後まだ行かれてない方はぜひ。

演奏はいい感じにいきました。やりたいことが定まっているバンドはやはり方向性にまとまりが出てよい。メンバーの方ともぼちぼち話せるようになり、いつの間にか居心地よくなってきた。とりあえずMCやるにあたって、メンバー全員の名前を覚えたのが功を奏したのかもしれない(人の名前と顔覚えるの苦手で……)。MCは、上智関係者の集まる中でやるのは少し憚られましたが、前日までしっかり文章を練ったおかげかちゃんと狙って書いた部分で笑いを取れたので割と満足なテイク。とはいえMCが一笑い取らねばならないという風潮、少し息苦しくはあります。笑いがすべてを支配する国・大阪に生まれというだけで、そういうノリを過度に期待されることもままあったので。MCはもっとこう、演奏してる曲の蘊蓄とか語る場でいいんだよ。

MC関連でもうひとつ触れていくと、自分が話している間、出番の終わった演者が舞台袖でがやがやしゃべっていたのが気になった。僕が話すのを止めると、向こうもピタッとやむ。が、こちらが再開するとまた騒がしくなり始める。あまりにもわかりやすいので最早面白いまであったが、なんだかなぁという感じである。人が話をしているときは、なるべく私語をせずに聞こう。

セットリスト

1. A-That's Freedom (Hank Jones / Arr. Hank Jones)

2. Don't Even Ask! (Jim McNeely)

3. Compensation (Kenny Werner)

Enc. Hello and Goodbye (Bob Brookmeyer)

 

8/27(日) 蕨市民音楽祭 @ <LSOP>

www.youtube.com

春のリサイタルからだいぶ時間がたち、メンバーもちょいちょい入れ替わったLSOPの本番。何気に埼玉県で演奏するのは初? であった。このバンドは本番が決まっていなくても決まって月2回は合奏をすると決まっている。腕をなまらせずに済むのでありがたい。今回は3rdトロンボーンの枠が空いてたところ、長尾がビッグバンド復帰したいと言ってたので、渡りに船ということでトラで乗ってもらうなどした。

このバンドのリードトランペットを務める森くん、会社の同期でしかも配属まで一緒なのである。一個下の芝浦のコンマスだったらしい。2019年の山野ではCSJO→JJWの順で演奏だったので、舞台上ですれ違っていた可能性まである。いやはや袖摺りあうも今生の縁である。選曲案にスタンケントン上げてるのは流石。

セットリストはなんかサドメルの曲が半分になってしまった。これじゃあいつもと変わりないわね。MCのギター小倉さんが「最後に演奏するのは"Groove Merchant"という曲で、これも同じくサド・ジョーンズの曲なんですが……」と話したところで、僕の横に座っているバリトンの金子さんが「いやサドは編曲しただけで、ありゃジェローム・リチャードソンの曲だろ」とぼそぼそ言っていた。金子さんは根っからのビッグバンドオタクという感じで、「"Rhoda Map"もいいが、ローダ・スコットといえば本人の書いた"Mach 2"の方がオレは好きだけどね」「この"Inner Urge"、作曲がジョーヘンで編曲がテッド・ナッシュだから実質サドメルだな、ダハハ」などと盛り上がることができた。歳が40離れていても同じ音楽の話ができるのは、幸せなことである。

セットリスト

1. Rhoda Map (Thad Jones)

2. Tip Toe (Thad Jones)

3. Darn That Dream (Jimmy Van Heusen / Arr. Frank Mantooth)

4. Pegasus (Hank Levy)

5. Inner Urge (Joe Henderson / Arr. Ted Nash)

6. Groove Merchant (Jerome Richardson / Arr. Thad Jones)

 

 

前編はここまで。後編は大晦日にでも更新できたらいいかなと思ってます。ではまた。

アマチュア植生調査 Vol.1 冬の高尾山

ご無沙汰している、読井(ヨミイ)です。自分でもこのペンネームの存在を忘れてました。ので、今使いました。

 

このブログが始まって以来ずっと、暗い投稿ばかりをしておりました。何に対する当てつけなのか分かりませんが、今見返してみてもとにかく暗い。これでは「ひょっとしてお前の先祖、ダークマターか?」と疑われても仕方がありません。

なのでたまには日記的な記事でも書こうかと思い、今号の筆を執った次第です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

と書いてから、一年が経過しました。文章は書いてから一旦寝かせろとはよく言ったものですが、いくらなんでも寝すぎです。いや、寝かせすぎです。それはもうずいぶんと発酵してらっしゃる。なんてったって一年物ですわよ、お客さん。

 

改めまして、読井(ヨミイ)です。最近はベイクドステラの名義でやってることも多いので、このペンネームもだいぶ埃を被っておりました。

去る2020年の2月*1、ちょうどCOVID-19の騒ぎが本格化する直前、その頃の僕はというと卒論の発表が終わって清々しておりました。研究室の蛇口から出てくる泥のような臭いを放つ水道水で淹れるハーブティーの味にうんざりしなくてもいい、その解放感に身を委ねるまま、気が付くと僕は京王線下りの座席に座っていました。向かうは高尾山口駅、ソロ登山です。今回はそのとき山路でよく目に入った樹木について、アマチュアなりに纏めてみました。当方腐っても森林科学系院生の端くれですので、それとない蘊蓄がぼちぼち混じります。悪しからず。

それではいってみよー。

 

 

 

アオキ Aucuba japonica

f:id:GreenDolphinStation:20210209190220j:plain

登り始めの低木層はマジでこれしか生えてなかった

 

でかくてギザギザでてらてらした緑が特徴的な、常緑低木です。低木なので幹は直径数cm程度までしか成長しませんが、その幹が青いので「青木」というらしいんですね。 江戸時代には庭木としてよく用いられたらしく、大学のキャンパス内にもひょっこり生えてたりします。ちょっと脱線しますが農学部の図書館には大学に植わってる樹木の名前と場所が全部載ってる地図があります。低木まではさすがに載っていませんが、なかなか面白いのでぜひ。

実(み)は冬に熟すようで、ちょうど頃合いのものがたくさん生っています。ただ、鳥たちにはどうも人気、いや鳥気がないようで大量に売れ残っておりました。試しに真っ赤に熟れたのをひとつ拝借して、端の方を齧ってみると……全然甘くない。なんだかキュウリの出来損ないみたいな味がする。しかも、中につまってる種がでかすぎてほとんど食べるところがない。どうりで売れ残るわけです。サイズ的に小型の鳥には大きすぎて食べれないってのもあるようですね。(途中の看板に書いてあってのですが、冬に住宅街でもけたたましく地鳴きをしているヒヨドリは、それなりに食べるそうです。)

 

 

シキミ Illicium anisatum L.

f:id:GreenDolphinStation:20210209190438j:plain

艶消しグリーンの葉が独特の雰囲気を醸し出す

 

山の中腹くらいからちらほら見かけるようになった中低木です。漢字では一般に樒と書きますが、木偏に佛(仏の旧字体)と書いてもシキミと読みます。どうやら昔(今も?)お焼香の材料として使われていたのがその由来のようです。葉っぱをちぎってくんくんしてみると、文字通り抹香くさい匂いがします。日本人にアンケートを取ったら15%くらいからは「おばあちゃんちの仏間のニオイがする」と返ってきそうな芳香、と書けば伝わるでしょうか。あ、あと仏花の背景的なぺらぺらの木も、シキミの枝ですね。意外と目にする機会の多い樹木の一つかもしれません。

ちなみに仏教で使うのが梻(シキミ)なら、神道で使うのが榊(サカキ)。○×クイズなら思わず×でないかと勘繰ってしまいそうなくらい単純な漢字の"つくり"です(二つの意味で)(うまい、山田くん座布団一枚やってよ)。神社のお祓いで神主さんがぶんぶん振ってるやつがサカキですので、お間違えなきよう。

こちらもきれいな赤い実をつけますが、有毒です。誤食して仏さんの厄介にならないようにしましょう。

 

 

カヤ Torreya nucifera

f:id:GreenDolphinStation:20210209190628j:plain

葉っぱは触ると血が出るくらいには痛い!

 

それなりに高いところまで登ってくると生えてる針葉樹です。漢字で書くと「榧」です。同じ植物系の漢字で「茅」や「萱」も"かや"と読みますが、部首が草冠というところからも分かるように、これはイネ科やカヤツリグサ科等の雑草のことです。より正確には、材料なり飼料なりで利用されてきたものの総称です。「茅葺きの屋根」と言えばわかりやすいでしょうか。雑草という文字通り、大雑把なくくりです*2

以下余談。英語で草といえば"lol"……ではなく"grass"ですが、これは単子葉類の草本のみを指すようです。たしかに雑草と言えば鋭く尖った葉っぱのイメージですわな。では双子葉類の草本は何といったかというと、これが思い出せないんですね。なんかの論文で読んで、ホォと思ったのは覚えているんですが……もしご存知の方がいらっしゃればこっそり教えてください。

草本にばかり話がそれて肝心のカヤが"蚊帳"の外になっていたので、閑話は休題と致しましょう*3。材は上品な淡黄色で、高級な碁盤・将棋盤の材料といえばカヤなんだそう(ちなみに駒といえばツゲ)。モミに似た針葉は、ちぎるとグレープフルーツのようなとてもいい香りがします。黄緑色のオリーブのような実をつけ、果肉は葉っぱと同じく柑橘集がします。絞ると油が出てきますが、天ぷら油として使われる例もあるそうな。割ってみると、堅い殻に覆われた種子が顔を出します。なんと食べられるらしい! 今は冬なのでさすがに見つかりませんでしたが、秋口にリベンジしたいですね。

追記:秋に訪れた山で偶然見つけたので、持ち帰って煎って食べました。クソ渋くて不味かったです。ちゃんと灰汁抜きしてから食べよう! 

 

 

アラカシ Quercus glauca

f:id:GreenDolphinStation:20210209190737j:plain

コナラ属共通のとげとげ葉っぱは「鋸歯(きょし)」といいます

 

「樫」です。どんぐりの木です。とは言ってもどんぐりの木はたくさん種類があるので、そのひとつです。

どんぐりは、種子を堅い殻が覆っているので正式名称を堅果(けんか)といいます。どんぐりのぼうしは殻斗(かくと)です。カシをはじめ、ブナ科の樹木はみんなこの堅果+殻斗のどんぐりセットをつけます。ブナ、クリ、カシワ、スダジイマテバシイクヌギ、コナラ、全部ブナ科です。たまには"目くそ鼻くそ"と同義のことわざとして我が子を引き合いに出されているブナ科樹木の気持ちも考えてみてください。

カシ類はシイ類(スダジイなど)やタブ類(タブノキなど)と並んで日本の代表的な照葉樹です。特に西日本に多いですが、最近は温暖化で東にも増えてきてるんだとか。事実、高尾山でたくさん生えてたし。近縁種のシラカシウラジロガシもちょいちょい見かけました。

さてお待ちかね、実食情報! 僕は小学生の時に不定期の自然観察クラブみたいなのに知らないうちに所属していたんですが、近くの大学の先生が教育普及の一貫としてよく指導に来てくれていました。隔月くらいで出るB4サイズのちっちゃな会報に投稿した「どんぐりって食べられますか?」という質問に、先生のアンサーがばっちり掲載されていたときの何とも言えない面映ゆさ、あれはよく覚えています。僕はラジオは聴かない人間でしたが、お便りが読まれたときってああいう感覚なんでしょうねぇ。で、肝心の内容はというと「食えるには食えるけど、しっかり灰汁抜きが要る」とのこと。マテバシイスダジイはそのままイケるらしいんだけどね……

 

 

 

とまぁ、こんなところでしょうか。ほかにもヤブツバキとかセンリョウとか、いろいろ生えてはいたんですが、特によく見かけた4種に絞って紹介しました。冬なので常緑樹ばかりになってしまいましたね。

樹木を同定するにあたっては、下の本を使いました。図鑑レベルの種数は載っていないものの、読み物的面白さがあります。実際上に書いた豆知識も半分はこの本からの引用です。樹木に関する基礎知識も載ってますし、入門書としておすすめです。 

葉っぱで見わけ五感で楽しむ 樹木図鑑
 

 

記事を書くにあたって昔の写真を引っ張り出しましたが、やはり映像記憶というのは不思議なもので、忘れていた感覚や感想がするすると出てきます。芸術的なものが撮れればもちろんそれがベストですが、そんなの気にせず記憶呼び出し装置としてバシバシ撮っていくのも大いにアリだなと思いました*4著作権を気にしなくていいのも、自分で写真を撮ることのうれしいポイントですね。

そうそう、タイトルは"Vol.1"なんて銘打っていますが、ぶっちゃけ続く可能性は低いです。続き物にするとプレッシャーだったり飽きだったりでどうしても二の足を踏んでしまうんですよねぇ。連載持ってる作家さんや漫画家さんはほんとにすごい。もし西日本や北日本の山に登ることがあったら、また書こうかな?

 

それでは、このへんで。

 

 

 

*1:いや2月だから"逃げる"か

*2:「雑草という草はありません」という昭和天皇のお言葉を引用しておきます。

*3:「この洒落は及第でしょうか?」「あかんわ」

*4:もちろん撮っちゃダメなものはダメ! あと写真撮られるのが苦痛な人もいるので、人物を被写体とする際は事前確認を忘れずに。

メリー・クリスマス

 先日、以下のツイートをした。

 

 

 こんなことを言ってはいるが、実のところ僕はクリスマスというものが好きではない。というか、キライだ。キライという言葉は自分で口にしても心がチクリとするからあまり使いたくないが、それでもキライだ。クリスマスソングも、あの鈴の音を聴くだけで嫌気がさす。

 

 なぜか。答えは単純。次の日――12月26日が僕の誕生日だからだ。

 

 

 

 12月の24,25の両日が近づくにつれ、この世のあらゆるものが色めき立つ。耳馴染みのある歌を皆が口ずさみ、マーケットは活気に溢れ、夜の街に滲むイルミネーション、パチパチと音を立てる暖炉。子供たちはモミの木に飾りをつけ、白髭の老父が贈り届けるプレゼントを心待ちにしているのだろう。仕事帰り、夕暮れの街を行き交う大人たちも、どこか楽しげだ。それがきっと聖夜の魔法なのだ。

 

 そしてあくる日、12月26日。

 あれほど浮かれ騒いだ世の人は、まるで何事もなかったかのようにそそくさと年越しの準備を始める。電飾でおめかししていた街は、再び殺風景な冬の色に戻る。スーパーで売れ残り、半額の札を貼られたケーキが僕の誕生日ケーキだ。

 

 12月26日は、そういう日なのだ。

 

 

 

 日本には昔から「ハレ」と「ケ」という考え方がある。説明するのは怠いから知らない人は自分で調べてくれ。クリスマスと正月は紛れもなくハレの日、それも雲一つない快"晴"なのだろう。そうなれば、その二つに挟まれた数日間がケの日になるのも無理はない。

 

 世の人はそれぞれがそれぞれに幸せな日を過ごしているだけ、別に僕を貶めようとなんか微塵も思ってないことは分かってる。誰も悪くなんかない。だが胸の奥から湧き上がってくるこの気持ちは何だろう。

 

 

 

 自分が卑屈な人間だということは理解しているつもりだ。人が幸せなら、それでいいじゃない。どうしてそれを厭う必要がある。上で触れたツイートも、そう思おうとしてのことだった。けれども、 まばゆい幻想の夜と仕事納めにばたつくスーツの大人たち、きらきらとした鈴の音と鳴り響く社内電話、2つの相反する心象風景や音が心に焼き付いて、どうしても耐えられないのだ。

 

 だが幸せになろうとしない者に、幸せは訪れない。卑屈なだけではどうしようもない。今年は自分でケーキでも買ってみるか。たまには、いい店で。帰り道、北風が吹きすさぶ中、少しだけ心を浮き立たせながら、家と反対方向の洋菓子店へと足を延ばした。

 

 

 

 果たして、店の明かりは落ちていた。「今年一番の大仕事を終えた」とでも、言わんばかりに。

祖父の話

色不異空 空不異色

色即是空 空即是色

 

僕は般若心経を暗誦することができる。

 

 

 

この前初めて湿布薬を買った。パッケージを開けるとすぐさま漏れ出る、独特のツンとくる匂い。この匂いはどこかで嗅いだことがある……そうだ、これは祖父の匂いだ。祖父の近くに寄るとこの匂いがしていたが、幼く健康で筋肉痛とは無縁のあの頃は知らなかった。あれは湿布薬の匂いだったのだ。

 

祖父との記憶、といっても、思い出すことは実はそう多くない。実際祖父の人となりや人生史がどんなものなのか、今でもよく知らない。ただ、僕の死生観というものに大きく影響を与えた人であることは間違いない。それは他でもない、彼の死によるものだった。

これは、僕の祖父の臨終に際しての、重く、懐かしく、そして少し不思議な体験談だ。初めて身近な人を亡くした僕の、とりとめのない回想録という形をとる。冗長な部分や、ありきたりな話もあることと思うが、時間があるときに読んでいただけると幸いだ。

 

 

祖父が亡くなったのはかなり前だ。話は2010年の3月へと遡る。

父方の祖父がガンを患ったという知らせが来たのは、小学6年生になったころだったと思う。僕が生まれるずっと前に亡くなった母方の祖母の死因もガンだったという話を聞いていたので、思わず身震いした。ガンという言葉がすなわち死を連想させるような響きを含んでいた。小5の時に一緒に家族旅行に行ったばかりなのに、そんなにすぐに症状が出るものなのか、と驚きもした。いや、もしかしたらその時すでに初期症状は出ていたのかもしれない。きっと最後の思い出に、という旅行だったのだろう。年末が近づくにつれ、容態を見に父が大阪へ帰る回数が増していったことを思い出す。それが何を意味するかは、まだ小学生だった僕にも窺い知れるものだった。

僕はというと長期休暇中も塾の集中講習があったため、大阪へ帰ることができなかった。盆と正月も例外ではなく、引っ越して以来初めて年末年始を広島で過ごした。広島にしては珍しく雪が積もり、車が出せなかったためジャンパーを着て塾まで走ったら、友達に「伊織がマッチョスーツを着てきた」と呼ばれた大晦日。母親とこたつでぼーっとテレビを見ながら、誕生日に買ってもらったボードゲームをして過ごした元日。

その後晴れて中学受験に合格し、小学校の卒業式を終えた僕は春休みを使って大阪へ向かっていた。祖父の病状は芳しくないとの話を聞いていた。

 

 

祖父は口数の少ない人だった。

いつも伯母とツープラトンで大阪人特有のマシンガントークを繰り広げている祖母とは対照的に、畳の間でくつろぎながらテレビで高校野球か相撲を見ている、そんな姿が印象に残っている。僕自身、ほとんど会話した記憶がない。

孫である僕に対して、特別にかわいがるようなことはしなかったが、それが優しい人でなかったということかというと、そうではない。

小3のときだったか、社会科の授業で「昔の人の暮らしを知る」みたいな単元で宿題が出た。親戚や近所のおじいさん・おばあさんに、幼いころ(家電がなかった時代)の生活はどんなものであったか聞いてこい、という内容だったと思う。小1で広島に引っ越していた僕は近くに知り合いのお年寄りなんていなかったのだが、運よく宿題の期間と帰省が被ったので話を聞くことができた。最初に祖母に声をかけたのだが、「じいちゃんの方がそういうのできるで」とのことで祖父に事情を話した。すると、次の日にはちゃぶ台の上にビニールひもでできた立派なわらじがこしらえてあった。それも、たくさん。

思えば近くのドブ川にザリガニ取りをするときなんかも、後ろについて見守ってくれていたような気がする。きっと言葉よりも行動でコミュニケーションをとる人だったのだろう。

 

それでもやはり会話はほとんど交わさなかったのだが、唯一の祖父と僕だけのコミュニケーションと呼べるものがあった。それが"早起き勝負"である。

僕はゲームが大好きなのだが(これについてもいずれ記事を書こうと思う)、普段は土曜日に1時間しかやってはいけないというなかなか厳しいルールだった。その禁が解かれた数少ない条件が帰省中で、毎日1時間やっていいということになっていた(なぜかは覚えていない、慣習とは得てしてそういうもんである)。

とはいえ、1時間では到底足りないというのが幼心であり、どうにかできまいかと思案して一つのアイデアに至った。親たちが起きる前からゲームをやれば何時間やっていようとバレない、というものだ。だが、当然目覚ましアラームなどをかけようものなら親も起こしてしまう。では、どうするか。"気合い"である。我ながら凄まじい執念だったと思う。かくして、小学生の僕はなんとか早起きをしようと決意したのだった。

ところが。

ある朝、5時過ぎに"気合い"で目覚めることに成功した僕は、音を立てぬように襖を開け、忍び足で階段を下りていった。家族を起こすことなくゲームの置いてある居間へ到着し、心の中で万歳三唱を唱えていたが、ふと目線を横にやると隣の部屋の電気が点いてる。しまった、先を越されていたかと思い部屋に入ると、そこには祖父の姿があった。年寄りは早起きというが、これほどまでとは。その後何度試しても、やはり祖父が先に起きていた。祖父はとやかく言う人ではなかったので僕は気兼ねなくゲームをやっていたのだが、しだいにゲーム以外の早起きへのモチベーションが生まれてきた。「祖父に早起きで勝ってやろう」と。

この話——僕が祖父と早起き競争をしているという話は、いつのまにか親戚の間に知れていた。「今日はじいちゃんに勝てたん?」「あかんかった」というやりとりが毎朝家族と交わされるようになった。

なかなか勝つことができなかったが、たまに祖父と早朝の散歩に出かけることもあった。パジャマのまま、まだ誰もいない道を歩くのはなんだか非日常であり、そわそわした。少し離れたコンビニに行って、サンドイッチを買ってもらったときは、家族には内緒で自分だけが祖父と行動しているという特別感があり、うれしかった。

 

 

以上が祖父との思い出とでも言うべき出来事だ。このような内容を帰省の車中で思い出していたかどうかは定かではないが、3月の暮れ、まだ肌寒い朝に車は祖父母の家に到着した。およそ1年ぶりに会う祖母と挨拶を交わし、初めて病床の祖父と対面した。

 

絶句した。いつも祖父がいた畳の部屋に設置された看護用ベッドに横たわる彼の体躯はひどくやつれており、皮膚は病気のせいなのかそれとも薬剤の副作用なのか、黄土色に染まっていた。とても生きているとは思えない痛ましい姿だった。なんと声をかけていいのか分からなかった。かなり、怖かった。

今思えば、あれは終末医療だったのだろう。死ぬなら実家でという祖父の思いを尊重し、在宅看護という形をとっていたのだと思われる。

 

普段は祖父母宅に3,4泊はするのだが、あまり大勢で泊まっても迷惑だろう、看護の邪魔にもなろうということで、早めに父の実家を離れることになった。

お昼ご飯を済ませ、

「お義父さん、そろそろおいとまさせてもらいます」

母が寝たきりの祖父にそう呼びかけると、祖父ははっとしたような顔をし、「おお、そうか、ほな」といつものガラガラ声で言い、みずからその体を起こした。すぐさま伯母が背中を支え、母も「大丈夫ですお義父さん、寝ててください!」と慌て気味に言ったが、祖父は起き上がったまま僕の方を見、手を差し出し、「また、元気でな」と言ってくれた。細くなってはいたが、ゴツゴツとした手だった。

父親は翌日から仕事があったため先に広島に戻り、母と妹と僕の3人で母方の祖父宅へ移ることになった。幸い両親の実家は近かったため、僕を含む3人は父親に車で送り届けられ、彼はそのまま広島へ戻っていった。 

 

 

祖父の訃報が届いたのは、翌朝のことだった。

 

母方の祖父宅で、僕は例のごとく早起きしてゲームをやっていた。たしかポケモンのパールだった。7時になる前くらいに階段の軋む音が聞こえた。どうやら母が起きたらしい、いつもより少し早いな。僕は例のごとく、階段を降りてきた母親に白々しく「おはよう、僕も今さっき起きてゲーム始めたとこ」などと言おうとしていた気がする。

祖父の死をどのような文言で告げられたかは、正直憶えていない。

ただ、数秒して、ゲーム機の画面に水たまりができていたことは今でも思い出せる。悲しいと感じる間もなかった。反射的な落涙だった。

 

 

父が車で広島に帰っており祖父母宅までの足がなかったため、免許を取ったばかりの従兄弟のにいちゃんが軽で迎えに来てくれた。いつもにこやかで、ジョークを繰り出しては家族を笑かすにいちゃんも、見たことがないほど顔が暗く、口数も少なかった。

一昨日の朝と同じ玄関先に車が停まる。いつもの畳の部屋に、祖母と伯父伯母と、看護師さんがいた。朝の5時台に静かに息を引き取ったのだそうだ。祖父は、昨日と同じように、仮設ベッドに横たわっていた。ぬるま湯で濡らしたタオルで、彼の身体を拭くように言われた。「清拭(せいしき)」というらしい。まだ死後硬直には至らず、弛んだ皮膚をどう拭いていいのか分からなかった。悲しみや恐怖よりも、戸惑いが支配していた。

昨日まで生きていて、母の呼びかけにも応じ、自ら体を動かしていた祖父が、いつもの声で会話をしていた祖父が、いま目の前で死んでいる。そんなことを考えていたときに、伯母がぽつりと言った。 

「……きっと伊織がこっちに帰ってくるのをずっと待っててくれてたんやな」 

その瞬間、涙がどっとあふれてきた。祖父が僕のことを待っていてくれたという事実への嬉しさと申し訳なさ、その間僕は祖父のことを考えすらしていなかったという罪悪感、祖父が被ったであろう身体的苦痛、僕が帰省をしなければ祖父は生きながらえたのではないかという根拠のない自責、様々な思いがぐるぐると渦巻いてこらえられなかった。声をあげて泣いた。ほとんど話したこともないのに、どうしてこんなに涙が止まらないんだろう、自分でも分からないほど泣いた。

 

 

お葬式までの流れは驚くほどスムーズだった。

お昼前には大柄なお坊さん(方言だろうか、うちでは「お寺さん」と呼んでいた)がミニバイクでやって来て、なにやら色々な道具を取り出し、金属の棒を振ったり指を小気味良くパチンとならしたりした後、神妙な面持ちでお経を唱えた。このとき初めて自分の祖父が真言宗と知り、その後中学生になって、真言宗密教であると知った。

お経を読み終え、こちらに向き直り、破顔して一言、「長いことご苦労さんでした、どうぞここからは足を崩して聞いてください」と人懐こい関西弁でにこやかに告げる。ふと心の緊張の糸を緩ませる響きだった。

「最初のお経は、亡くなられた方の魂がどこかへ逃げていってしまわないよう、早口で唱えるんです」

「この五色の札にはそれぞれちゃんと意味がありましてね、それぞれ仏さんがご飯を食べたり、体を浄めたりするのを助けてくれるんです」

興味深い話もいろいろしてくれるし、祖母の話にもうんうんと頷いて相槌を打ってくれる。ときには関西の人間らしく笑いを誘って、空気を和らげていた。もはや神仏の存在を信じる人がほとんどいなくなったこの時代、宗教家の役割はその有り難さを説くことよりも、親族の死に直面して悲しみに暮れる遺族の気持ちを汲み取り、共感し、少しでも安らげることなのかもしれない、と今になって思う。

 

次々と親族の人たちが家へと訪れ、お香をあげていったた。人見知りだった僕と妹は、玄関がガチャリと開く音がするたびに2階の寝室に隠れていた。家はそのお香の匂いで充満していた。母は「辛気臭い匂いだ」と言っていたが、僕はこの匂いが好きだった。文字通り、抹香臭い性格なのかもしれない。 

父がいったん広島に戻った際に届いていたので、僕は中学の制服を着て葬儀に参列することになった。まさか入学式や記念撮影よりも先に、葬式で新品の(そしてぶかぶかの)制服に袖を通すことになるとは。親戚のおばあさんが「海軍さんみたいな制服やねぇ」と言ってくれた。祖父も同様の感想を抱いたのだろうか。できれば生きているうちに見せたかった。

 

 

以上がおおよその回想録だ。葬式の内容や火葬までの流れは正直なところ記憶が曖昧なので今回は書かないことにした。

祖父が亡くなってからもうじき10年になる。当時小学校の卒業を控えていた僕は半年もしないうちに大学を卒業する。今年のお盆は帰省することができなかった。 

“病は気から”という言葉がある。この言葉がどれほど正しいのかは知る由もないが、僕が帰省したのと祖父が亡くなったのが同時だったのは、どうしても偶然とは思えないのだ。もしかしたら、人は気持ち次第で自分の死を遅らせることができるのかもしれない。医学の知識は皆無に等しいが、今なおそう思わずにはいられない。

葬式の告別式でびょうびょう泣いている僕に、従兄のにいちゃんが言った。「伊織、こういうときは笑って送り出すもんやで」と。これから先、身近な人の死に触れることも多くなるだろう。はたして僕にそれができるだろうか。

死者は生者の心の中で生き続けるというが、こうして文章に綴ることで祖父の記憶をやっとこさ整理できた気がする。見つめ直すことで前向きに捉えられるようになるのなら、亡くなった人に思いを馳せるのも、悪くない。でも、もう少し話してみたかった。お酒も酌み交わしてみたかった。結局早起き勝負も勝つことはできなかったな。でも今はもう絶対勝てないだろうな。
インターネット上で故人を偲べるようになった時代に感謝しつつ、今回は筆を置こうと思う。 

 

 

羯諦 羯諦 波羅羯諦

波羅僧羯諦 菩提薩婆訶

般若心経

お金の話

雨があがって

雲間から

乾麺みたいに真直(まっすぐ)な

陽射しがたくさん地上に刺さり

行手に榛名山が見えたころ

山路を登るバスの中で見たのだ、虹の足を。

眼下にひろがる田圃(たんぼ)の上に

虹がそっと足を下ろしたのを!

野面にすらりと足を置いて

虹のアーチが軽やかに

すっくと空に立ったのを!

その虹の足の底に

小さな村といくつかの家が

すっぽり抱かれて染められていたのだ。

それなのに

家から飛び出して虹の足にさわろうとする人影は見えない。

―――おーい、君の家が虹の中にあるぞオ

乗客たちは頬を火照らせ

野面に立った虹の足に見とれた。

多分、あれはバスの中の僕らには見えて

村の人々には見えないのだ。

 

 

お金の話

 

実家が「一に節約、ニに倹約」みたいな家だったので、知らず知らずのうちに「お金を使うことは罪だ」という観念を抱くようになった。

 

中高一貫の私立に通っていることに負い目があった。僕の母校に対する世間一般の評判は「おぼっちゃま学校」であり、事実まわりにはその類の人間が多かったように思う(母校や同学出身者を批判しているわけではない。僕は生徒も先生もひっくるめて母校が好きだ)。中学受験の際に県立の中高一貫にも合格しており、学費の問題で母はこちらに進学するよう食い下がったが、父親の一存で私立に行くことになったといういきさつがあった。そのため、一時期は学校へ通うことさえ罪なのではないかと感じていた。

(なお余談だが、僕自身はいずれとも異なる、吹奏楽部が全国レベルの中学校に行きたいと思っていた。三者で意見が割れたが父親の決定権が強かったのである。)

留学や海外研修にも行きたかったが、とてつもない金額がかかると思うとどうしても心のブレーキがかかって言い出せなかった。大金を使うという"大罪"を犯してまで、果たして僕のような人間が海外に行く価値があるのだろうか? 宝玉と泥団子を天秤にかけるまでもないように、答えは明白だった。

大学受験の際も、もうこれ以上親に経済的な負担はかけたくないと思い、予備校などには通わなかった(これは実は嘘で、一度だけ体験授業を受けている。もちろん無料の)。赤本も一冊たりとも購入せず、先輩のおさがりを使っていた。願書を出したのは国立の前期と後期の2校のみ。中学受験の際に滑り止めで受けた学校の入学辞退の際に万単位の契約破棄手数料がかかったことを聞かされていたので、受かっても行かない(もしくは行かせてもらえない)であろう私大は受けまいと思った(くどいようであるが私大の人たちをdisるつもりは毛頭ない。僕には私大に通う大勢の素晴らしい友人たちがいる、彼らを貶めることなど到底できない)。また、入学辞退申し入れの電話で母親が担当者にねちねちと嫌味を言われたことも知っていたので、再びそんな目に遭わせたくないと思ったのも大きい。

 

かくして高校までの僕は、「金を使うこと=罪」という図式の中で生きてきたのである。

 


ところでご存知の方も多いかもしれないが、僕は大学に入ってから金のない時期がしばらく続いていた。具体的に言うと2年半ほどで、ひどいときは友人に計10万円程度の借金をしていた。

金を使うことが罪ならば、金を使わなければよい、というマリーアントワネットのような解法が通用するのは、自分が生きていくことにお金を使わずにすむ間のみである。少なくとも水道代、電気代、ガス代、ネット料金、家賃、食費、定期代、医療費、その他もろもろの「生活必需金」が親に担保されているうちは、金を使わなければよいという理想論を叶えることは容易い。せいぜい趣味と人付き合い、ここを削る程度だろう。

さてここで問題だ。

先に挙げた諸経費を自弁しなければならなくなった人間が、理想論を叶えようとするとどうなるだろうか?

答えは簡単。「破滅」である。

金を使うことが悪であるならば、出費を抑えなければならない。一日一食、定期を買わずに自転車で通学する、よほどのことでない限り病院には行かない。今まで自分が何の対価も支払うことなく享受していたものを悉くそぎ落とさない限り、金を使うという罪を犯すことになるのである。

その先に待っているものは、何か。

 

「みじめ」という感情である。

 

よく金持ちは吝嗇で性格が悪いという描写があるが、思うにあれは貧者が富者を僻む中で創り出した妄想の賜物だ。あるいは、金持ちに貧乏人の置かれた状況が分かるまい、という意味合いでならば、筋が通らないのでもないのかもしれないが、少なくとも金持ちがケチなはずがないのだ。

「金銭面の豊かさと精神面の豊かさは比例する」

とは一概には言えないが、

「経済的に貧しい人は心も貧しくなる」

というのは確かなことに思える。

「どうしてこんな目に遭わねばならないのか?」という、被害妄想じみた思考にとらわれ続けるのは、自身にとっても、はたから見ていても気分の良いものではない。

 

僕もその例に漏れることなく切り詰めた生活を送っていたが、啄木の「働けど」の歌のように思う機会が多かった。毎日の食事に使えるお金を考え、スーパーを何軒もはしごする。もはや倹約が自己目的化していたのだと思う。大金を支払った後にはじゅくじゅくと心が蝕まれた。

だが、大学生になって3年目を過ぎたあたりから、次第にこのような考えが少しずつ頭に浮かぶようになった。

「金を使ってもよいのではないか?」

読者諸氏にとってはくだらない、取るに足らないことのように思えるかもしれないが、僕にとってこれはコペルニクス的転回といっても差し支えないほど大きな転換点であったことを強調しておきたい。

三食にきちんとお金を使っていい。電車で通学してもよい。具合が悪ければ薬を買う。

それだけのこと、高校まで当たり前にしてきたことが、どうして大学に入っただけで罪となろうか。小学生のときから諳んじてきた憲法25条の謳う生存権の文言の意味を、初めて体験という形で理解したのだ。人間には文化的で最低限度の生活を営む権利があると。そのために金を使うことは、なんら咎められるべきことではないと。

 

心にゆとりが生まれた。あの、節約をせねばならないという脅迫観念は何だったのだろう、と。また少しずつだが、金を使ってもよい対象を拡張することができるようになった。

「自分が価値があると思った嗜好品や趣味のものに対して、惜しむことなく相応の対価を支払う」

ああ、このセリフのなんと文化的なことか! 自分を悦ばせる何かをプロデュースする店やクリエイターに、感謝と敬意を表してケチらず代金を支払う。それを元手に店はよりよい品物やサービスを生み出し、クリエイターはまた創作をする。僕が美容院に払ったちょっと高いカット料金も、コーヒー豆の代金も、観光地でのややぼったくりに感じるサービスも、必ずそれらを供給する人たちの糧となる。極めて単純だが、なんとも爽やかで気持ちのいい金の巡りのモデルではないか。

 

まだまだ全てにおいてとまではいかないが、ある程度「金を使うこと=善」と思えるようになったことは、僕の精神に大きなゆとりを与えてくれた。今では大きなストレスなくお金を払うことができるようになっている。

 

 

ここで終わってしまうとただの自分語りでなんともつまらないので(耐えて読んでくださった方はありがとうございます)、もう少し一般的な話に落とし込んでみようと思う。

 

一つ。個々の人間が生まれ育つ環境には、他の環境とは全く異なる"文化"がある場合が多い。特に"家庭の文化"については、他人と比べる機会が少ない・早期植え付けが始まる・ある程度の強制があるなどの理由から、特異であるということに気が付きにくい。

二つ。苦しくて仕方がないとき、そう感じる根底にある自身のものの見方や考え方を疑ってみるとよい。それは果たして正しいのか? 周囲から知らないうちに植え付けられたものではないのか? 考えているうちに、パラダイムシフトとでも言うべき観念の転換が起こり、ずっと生きるのが楽になるかもしれない。

三つ。何らかのモノやサービスに対して正当な対価を支払うことは義務であると同時に善であり、感謝や敬意の表出であり、喜びである。このことに気づくだけで、「金を支払う」という行為の意味が違って見えてくる。

このようなところだろうか。

 

 

とはいえやはり金とか所得に対するコンプレックスは消え去ったわけではないので、僕にお金や給料の話をするのは遠慮されたい。ま、結局は逃れられない部分もあるのよね。今はそっとしといてくださいな。

今回はこんなところで。

 

 

そんなこともあるのだろう。

他人には見えて

自分には見えない幸福の中で

格別驚きもせず

幸福に生きていることが――。

 

吉野 弘『虹の足』

ブログ開設のお知らせ

ごきげんよう

ここで会うのはお久しぶりです。

前にお会いした時と元号は変わりましたが、「みなさんお元気ですか」。

この度の改元では何の気兼ねもなく訊けますね。

結構なことです。実に結構なことです。

 

 

 

このたび自分で好きなことを書くためのブログを開設した。まったく僕個人用のブログだ。名前は好きなジャズ・スタンダードから拝借した。やはりE♭の曲は好きだ。

 

今回は初回なので、なぜブログを書き始めたかをしたためておくことにする。つまるところ、以下はこれから駄文に時間をかけることを正当化するための"言い訳"である。

 

ひとつには、定期的に文章を書く練習をしておきたいと思ったこと。

「ペンは剣よりも強し」などと言うが、普段から稽古をつけておかないと切っ先が鈍るのは、どうやらペンも剣も同じのようだ。"良い文章"が何なのかはよく分からないが、少なくとも自分の内面にあるものを過不足なく、その形のまま表出できるような文章は書いていたい。

 

ひとつには、SNSという場所は(自分の場合はツイッターのみだが)、日々考えたことを書き表すには、少し窮屈なように感じたこと。

「140」という字数は、日々考えたことをありありと読者に伝えるには短すぎる。大学入試でも要約は200字程度はあるのがセオリーだ。これに具体例などを挙げだせばキリがない。

その点ブログは無制限である。字数制限もなく、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、

f:id:GreenDolphinStation:20190509031555p:plain

文字のを変えたりもできる。

唯一「~~まで」という制限があるとすれば、それは「気が済むまで」である。

 

(このように広々と段落を分けられるのもブログの良いところだ)

 

ひとつには、僕のなかに眠っている記憶を、何かしらの文章の形で書き残しておきたいと思ったこと。

文章を書くことは、個人の思考を他人が見てもわかるようなフォーマットに整理するという営みだ。過去の自分なんて、今の自分から見れば他人も同然。そうならないように、またそうなったときのために、まだ言語化されていない感情や曖昧になった記憶を整理しておこうと思ったのだ。

 

 

かつて、海軍の世界には「大艦巨砲主義」の時代があった。大きな主砲を備えた戦艦は海上の要塞として重要視され、各国はこぞって艦船造りに励んだという。しかし、第二次世界大戦の頃にはその「船の時代」は終焉を迎え、より量産でき、より速く、より小回りの利く「飛行機の時代」へと移り変わっていった。

 

それは文章も同じことのようだ。

2000年代半ばころからものすごい勢いで台頭し、その隆盛を誇った「ブログ」という文章文化も、今は鳴りを潜め、その座を「SNS」という文章文化にとって代わられてしまった(ブログはSNSではないのか? と問われればNOとは答えがたいが)。もちろん現在でも読者数の多いブログは一定数存在するが、その書き手は大まかに2パターン。「有名人」か「何かを発信したいと思っている人」だ。個人の些末な日常を綴るブログを書き、それを読み、互いにコメントを送りあうという文化はほぼ廃れてしまったように感じる。

 

以前担当していた公式ブログとは違い、ここで何かを発信するつもりはない。今から超弩級戦艦をこしらえてまで、誰かに戦争を吹っ掛けるような真似はしたくない。

このブログはいわば、ネットという広大な海に眠る、沈没船のようなものである。このブログを書くということは、過去の遺物をせっせせっせと拵えるという行為なのである。

とはいえ沈没船は海の生き物の良い住処となるらしい。こんな拙い文章でも読む人は読んでくれるんだろうとは思うので、それも糧にしつつ書き溜めておくことにする。

 

 

先にも触れたが、これは"公"式ブログではない。登場するのは、飾り気も媚びも遠慮も体裁もない"私(わたくし)"だけだ。そっけない文体に、頻出する自分語り。読んでてつまらないかもしれない。ひょっとしたらムカつくかも。まぁ、そのへんも含めて本来の僕ということで楽しんでいただけるなら幸運だ。なるべく汚い言葉は使わないようにするので。ウソでーす。クソクソクソ!wくりーむぶりゅぶりゅれww

 

ではこのへんで。

 

読井 栞(あたらしいペンネームです)